子供の頃のイギリス生活の事 (影響を受けた音楽).

目安時間 10分
東郷さんこんにちは。セイブンです。

前回のメルマガでは、今現在に至るまで僕がずっとアメリカで生活をする様になったきっかけをお話しました。

書いていて、僕自身が感動してしまいました。

それって、ちょっとバカ(笑)?

ちょっとバカだなんて、そんな事ないヨ、セイブンさん.....。

なんて言ってくれる人がいるから、励ましてくれてるのかと思ったら、「ちょっとバカだなんて事はないヨ。ちょっとじゃなくて、とってもバカだヨ」なんて続けられて、ガッカリ(笑)。

マア、冗談はこの位にして、さっそく今回の記事を始めましょう。

今日は、僕が幼い頃に過ごした、イギリスの事。当時のイギリスと、そこで暮らした年月の生活について書きたいと思います。

家の都合で、イギリスに...その話を聞いた時、僕は中学二年生。

イギリスに住むんだヨ!と言われても、それがどういう事なのか、よくわからなかったのを覚えています。

同じ外国でも、「アメリカ」というのは、各種メディアを通してイメージが盛んに僕の心に流れ込んで来ていました。それで、子供心にも、「アメリカって多分、こんな感じ....」という印象をつくり上げていました。

それで、そのアメリカのイメージを使って考え、「アメリカ」の小型版みたいなのが「イギリス」なのかな?などと想像していました。

今になって見れば、アメリカだろうがイギリスだろうが、どっち道、何も知らなかったのですが。

わからないまま、その日が来て、父親以外の家族と一緒に飛行機に乗って、イギリスに飛びました。

現地では、父親がすでに貸し家を用意していて、その家に住み始めました。

その家は、イギリスのケント州という、ロンドン郊外の地域にありました。

電車(英国の国鉄)の最寄りの駅は、チズルハーストという名の駅でした。

飛行機でイギリスに飛び、貸し家に到着したその日は、確か雪が降っていた様に記憶しています。

なにしろ、何十年も昔の事なので、時系列の通りに記憶をたどっていくのは難しいと思います。

なので、時系列については気にせずに、記憶がよみがえるままに書いていきたいと思います。

イギリスで、僕が何よりも大きな影響を受けたのは、音楽でした。

日本では、すでにビートルズの大ファンで、友達とバンドをつくって歌い、ハーモニカを吹いていましたが、ビートルズ以外には、音楽の事は大して知りませんでした。

イギリスに住み始めてからも、しばらくは頭の中はビートルズ一色でしたが、やがて、当時のイギリスの音楽に親しみ始めました。

毎週、木曜日(多分)の7時半(多分)に、BBC(イギリス国営放送)テレビで「The Top of The Pops」 というヒットチャート番組があって、それを欠かさず見ました。

当時のイギリスは、「パンクロック」という独特な音楽が、そのライフスタイルやファッションと共に目立ち、際立っていました。

その代表的なバンドは、ジャム、クラッシュ、シャム69、ダムド、ストラングラーズ、スキっズ、Xレイスペックス、ブロンディー、セックス・ピストルズ、ブームタウン・ラッツ、バズコックス、ラモーンズ....その気なら、まだまだ続ける事ができます。

その一方で、ビージーズ、エレクトリック・ライト・オーケストラ、エルヴィス・コステロ、イアン・デュリー&ザ・ブロックヘッズ、ドクター・フィールグッド、ボブ・マーリー、スティール・パルス、ボニー・M、ゲイリー・ニューマン、スペシャルズなどの、様々な音楽スタイルの多種多様なバンドやミュージシャン達が、入れ替わり立ち替わり、ヒットチャートを賑わせていました。

他にも、クイーン、モーターヘッド、ホワイトスネーク、アンダートーンズ、ドナ・サマー、ポール・マッカートニー&ザ・ウィングス、スパークス、ジルテッド・ジョン、アバ、パブリック・イメージ・リミテッド、リズィロー、ジョン・ポール・ヤング、
デイヴィッド・エセックス、ラッツ、デイヴィッド・ボウイー、ダーツ、ローリング・ストーンズ、ニック・ロウ、シン・リジー、リーナ・ラヴィッチ.....。

こうやって、思い出す名前を片っ端から並べていくと、それだけで今回のメルマガが終わってしまいますので、この辺にしますが......

新旧のミュージシャン達が、大ベテランから一発屋まで、現れては消え、現れては消え、メチャクチャに活気があって面白かったのが、当時のイギリスの音楽シーンでした。

ヒットチャートや、目立った流行とは別のところで、当時からすればひと昔前の英米の大物ミュージシャン達の音楽にも出会いました。

ジミ・ヘンドリックスは、ラジオの特集番組で聴いて知りました。
ボブ・ディランも、そうだったからな。

レッド・ゼッペリンは、隣りの家に遊びに行った時、LPを聴いて。

僕はイギリスの男子校に通っていたのですが、その学校の同級生が僕の家の隣りに住んでいました。名前が、ティム(=ティモシー)。

その彼のレコード・プレイヤーで、レッド・ゼッペリンのセカンド・アルバムを聴きました。

ドアーズ、ザ・フー、キンクスは、何と、オープンリールの個人録音テープで初めて聴きました。

家の近くにある教会のバザーで、オープンリールのテープがたくさん、プレイヤーと一緒に安く売っていた。それをゴソッと買って来て。

ディープ・パープルは、図書館でレコードを借りて聴きました。

当時イギリスで受けた、音楽の影響が、その後の人生での僕の音楽生活を完全に決定しました。

今でこそアメリカに住んで生活している僕ですが、当時はアメリカになんか、全然興味がありませんでした。

理由。音楽がつまらなかったから。イギリスに住んでいて、ラジオで「アメリカン・トップ40」なんて番組を時々聴くと、もう退屈で退屈で仕方がありませんでした。

逆から言えば、当時のイギリスで僕が楽しんでいた音楽生活が、どれほどにか活気があって、エネルギーに満ちていて、エキサイティングだった...という事ですね。

でも音楽以外では、当時のイギリスでの生活は、僕にとって、それほど楽しくはありませんでした。

けれどもそれは、当時の事です。

今また、イギリスに行って住んだら、いろんな意味で、かなり違うんじゃないかと思います。

ロンドンの街を、ひとりでグルグル、果てしなく歩いていた事を思い出します。

イギリスの、普通の現地学校に通い始める前に、僕はロンドンにある、バーリッツという英語学校に通っていた日々がありました。

その学校での数時間のクラスが終わると、どこに行くともなく、脚の向くままに延々と歩いていました。

それまでずっと日本にだけいて、しかも子供なので、家族と一緒に住んでいる地域とその周辺位が、個人的にも、せいぜいの活動範囲。

その僕が、日本を出てイギリスに住み、ひとりで異国の街をくまなく歩いていた。いい体験でした。

あれは確実に、僕という人間の人格形成に大きな影響を与えました。

ある意味では、僕の中の一部分は今でも、ひとりでロンドンの街を歩き回っているのかも知れません。

でもいずれにせよ、当時イギリスで生活をして、ある程度の英語力を身につけました。

同時に、日本国内向けにとどまらない、海外でもそれなりに振る舞える自己アイデンティティ、パーソナリティを形成しました。

それがのちに、僕がアメリカで暮らす為の土台となりました。

英語については、長い長い間、イギリスの英語しか知らず、初めてアメリカを訪れた時も、現地の人達とは違う英語をしゃべっていました。

今でも、僕のアメリカ英語はつけ焼き刃で、アメリカ人みたいにしゃべろうとして、失敗している英語だと思います。

話をイギリスに戻すと、僕は結局、2年弱ほどイギリスで生活しました。そして、又家族の都合により、一家でイギリスを去り、日本での生活が再び始まりました。

けれども、イギリスでの生活を通して、目には見えないところで、内面的・精神的・文化的にかなり変わってしまっていたので、それ以降の日本での生活は、いつもどこか、ギクシャクしていました。

結局、日本の日本人女性ではないイタリア人ハーフの女性と結婚をして、アメリカでの生活に落ち着いたのも、その辺かも知れません。

でも僕は、これまでの自分の人生体験のすべてに感謝しています。

これまでの人生のすべてが、すべてあったがままにあったからこそ、今の僕がいる...のですから。

東郷さん、今日の記事は、懐かしくも大事な大事な、僕の人生の第一の転機になった体験。十代初めの、イギリスでの生活の記事でした。子供の頃のイギリスでの生活を、僕自身と一緒にたどって下さって、ありがとうございました。

とは言っても、生活それ自体の話よりも、趣味の音楽に走ってしまい、単なる音楽の話題がかなりの割合を占めてしまいましたが....。

けど、東郷さんも、音楽が大好きなの、よく知ってますよ!

楽しんで頂けたかと思います。楽しんでもらえたなら、うれしいです。

じゃア、東郷さん、又書きますね。

お元気で!すぐ又!さようなら!

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