突然だが…神はいるか?

目安時間 12分
お元気でいらっしゃいましたか?

セイブンです!

「ウルトラセイブン!」のセイブンです!

こんにちは。今日も又いつもの様に、メルマガをお届けします。

今回のメルマガのタイトル/テーマは、グッとシリアスに、「突然だが...神はいるか?」です。

さて、それでは今回のメルマガを始めますが、その前にひと言....

誤解のない様に、くれぐれも言って置きますが、イルカは神ではありません(笑)。クジラもオットセイもアシカも神ではありません。

シリアスなテーマの割には、セイブンさん、又バカな事ばかり言って。何のつもりだろう...アアわかった。なんだ、ただのおふざけメルマガか....と思われたら、それこそ誤解です。なので冗談はこれでやめて、本題に入りましょう。

この「神はいるか?」という質問に、すぐに「いる」とか「いない」とか答えがちな僕達なのですが....。

ここでひとつ、重要な欠落に気づきませんか?

それは、質問者の思う「神」と、回答者の思う「神」が、言葉の意味として、何の意思疎通も相互了解もできていないという事です。

だから、いるとかいないとか論ずる前に、神という言葉の意味をはっきりさせなくてはいけない。

マンガに出て来る様な、戯画的なイメージの神について質問しているのであれば、こういう事です。

あなたは、雲の上にいる仙人の様な神、長い白髪と白いヒゲで、白いローブの様なものを着ている神がいると思いますか?

これで「ハイ」と答える人は、まず、いないでしょうネ。

次に、こう質問して見ます。

全宇宙の整合性。すべてが規則正しく、完全な調和の中で秩序立って活動し、成り立っている、その宇宙全体。そのあらゆる要素を律している、統一的な精神性、それを仮に「神」と呼ぶとするなら、あなたはその「神」の存在には可能性があると思いますか?

これなら、少なくともある程度の割合で、「ハイ、思います」という答えがあるでしょうね。

これなんです。僕が言いたいのは。これこそがポイントなんです。

「神はいる」。「神はいない」。

「いる」と思っている神。あるいは「いない」と思っている神。

その「神」とあなたが呼んでいる存在を、あなたはどういうものだと仮定・想定しているのですか?

これがはっきりしないまま、「神はいる」とか「神はいない」とか言って見ても、そんなのは「Xはいる」「Xはいない」と言っている様なもので、何の意味もありません。

その「X」とは何なのですか?

ちなみに僕も、宇宙のすべてを支配する白い長髪の老人が、どこかの雲の上にいる...とは思いません。

けれども、歴史的に「神」という言葉で表現されて来た存在。国や文化によって違いはあっても、全世界で、ある程度の共通点を持って認められて来たその存在の事実性を、何らかの意味で認めざるを得ないとは思います。

僕の場合、大自然の中に、何か巨大な精神の様なものが働いているのを見ます。

例えば、天体の動き。月や星々、太陽、諸惑星の運行は、どう見ても人知を越えた知性の支配下にあります。

アーティスティックな見地からすれば、その宇宙的な知性の存在はもっとはっきりします。

大自然というのは、どこを見ても、何を取っても、デザインとして、余りにも見事過ぎるのです。

これすべて、偶然に成立しました...と言われて、ハイそうですかと、心から納得する人はいないんじゃないかと思います。

宇宙には精神がある。

だから人間にも精神がある。

そして両者の間にはある程度の同一性があり、共通性もあり、相互の疎通がある。

そう考えるのが自然だ....と。

これが僕の「神」観です。

言葉にしっかりとした意味づけをし、事実的な定義さえ与えるならば、いて当たり前なのが「神」です。

そのレベルになると、それはもう「信じる」「信じない」の問題ではありません。

人間の精神の探究を、宗教的・文化的なイメージの理解に託して続けた心理学者、カール・グスタフ・ユングは、「神を信じますか?」と質問されて答えました。

私は...私は知っている(I know)。

余談になりますが、面白い事にYoutubeには、この時のユングのインタビューの動画があります。

「神」という言葉に、十分に具体的な意味を与えれば、それはもう、その存在の有無を実際に確認できる次元にまでソリッドなものになる。

これは多少極端な話、そして乱暴な話になりますが、例えばあなたが自分のネコに「神」という名前をつけたとします。

誰かがあなたの家を訪ねて「あなたは神を信じますか?」と質問する。

それに対してあなたは平然と、こう答えます。

「何を言っているんだい。信じるも信じないもないだろ。ホラ、現にあの台所の隅にいて、今ニャーニャー鳴いているじゃないか。見えるだろ。聞こえるだろ。あれが神なんだから、神はいるじゃないか。神!神!こっちへおいで。ヨシ、ヨシ、いい子だ、神....」。

言葉の意味が明確なので、言葉が意味している対象の存在の有無も明らかになる...という実例です。

神はもちろんネコじゃありませんし(笑)、犬でも猿でもありませんけど。

こうやって言葉の定義からまず考えて見ると、何だか漠然としていてよくわからないまま終わってしまいがちな「神」についての論議も、グッとやりやすくなります。

「何かを本当に論ずるには、まず使われる言葉の意味を、共通の内容に統一しなくてはいけない。そうでないと、使っている言葉だけは同じでも、その言葉の中身が違う為に、互いがまるでかみ合わないトンチンカンな話をし合った上に、同じテーマで論議したつもりにだけなって終わってしまう。」

これは僕の生き方に、物事の見方・考え方の土台から巨大な影響を与えた哲学者、ゲオルギー・グルジェフの言葉です。

 ただし、紹介した彼の言葉は「そういう意味の事を彼は言ってるんですよ」という僕自身の説明で、その言葉の原典にその通りに書いてあった訳ではありませんが。

この哲学者については、単独テーマでメルマガをお届けしましたね。

このメルマガは彼をテーマにして書いている訳ではありませんので、彼についてはこれで終わりますが、ご興味のある方は彼の弟子が書いた著作をお勧めします。

「 奇蹟を求めて(In Search of The Miraculous) 」P.D.ウスペンスキー著.  平賀出版社より.)

話は戻りますが、言葉の意味を定義しなければ論にならない...というのは、なにも「神」についてだけに限った事ではありません。

いい例が、「ちゃんとする」という言葉です。

ちゃんとしなさいよ!全くもう!

ちゃんとやってるのに、うまくいかないのはどうしてだろう?

なーんて言いますけど...けど....

実際の話、コレ、どういう意味ですか?

コレね、本当の事を言うと、共通の意味なんか、はじめっから存在していないんです。

今、この言葉の意味を、試しにウェブ検索して見ました。

「ちゃんとやる」とは、物事をいい加減にせず、きちんと、丁寧に行うことを意味します。

コレ、実行しようとすると、間違いなく百人百様になるでしょ?

「きちんと」という言葉だけ取っても、子供と大人では「きちんと」のレベルが全く違うし、何が「きちんと」なのかという理解、感覚も個人個人によってまるで違う。

で、セイブンさん、何が言いたい?

「神」という言葉についても、事情は全く同じなんですね、コレ。

ワタシ、神様を信じてます。

マアそうなの、ワタシもなのよ!

と言ったって、この2人はそれぞれが、全く教義の違う、全く相容れない宗教の信徒かも知れない。

仮に同じ「ナンダロ教」という教えの信徒だとしても、ひとりは伝道者になろうとするほど本気で、もうひとりは仲間が欲しくてグループに集っているだけかも知れない。

僕は、アメリカで長く生活してるでしょ。

で、アメリカというと、僕達日本人にとっては「アア、じゃあキリスト教徒が多いんだろうな」となるんだけど、マジな話、コミュニティーとしての機能が大きいですネ、教会の多くは。

それが悪い...って言ってるんじゃないんですよ。全然違う。逆。素晴らしいと思っているんですネ。

日本にも「駆け込み寺」という言葉があるじゃないですか。アメリカの教会コミュニティーとはニュアンスが違うけど、宗教として心の支えになってくれるだけでなく、具体的に生活上の支えにもなってくれる...みたいな。

そうすると当然、主にコミュニティーとして、生活共同体として教会に集う人達も少なからずいるんです。

僕、現実に知ってますから。個人名のレベルで、何人も知ってる。

そうすると、事のいい悪いは別として、その信条的な内実というのは、個人個人によってまるで違う...という事になる。

面白い話があるんですヨ、たった今思い出したんだけどネ。

僕は読書家なので、何でも読むんですよ。バイブルだって読む。

で、ある時バイブルを読んでると、あるアメリカ人のおバアちゃんがそれを見て言った。

マア!感心だネ!アタシゃあ子供の頃からずっと教会に通ってるけど、バイブルなんて真面目に読んだ事もないし、だから何が書いてあるのかも全然知らないんだよ!(笑)

このおバアちゃんのその豪快な言葉は余りにも微笑ましくて、思い出すたびに笑ってしまいます。

でも、こういう人、結構いる。

マアそんなのは、本人の自由だから。それはそれで何も問題ないし、その様であっても別にいいんですけど。

でもホラ、今回はテーマがテーマだから、一応突っ込むんですネ。

社会やコミュニティーの中でどうみなされ、どう思われていても、その人その人の内実というのは、確認して見なければわからない。

人間の精神的な内実って、ひと筋縄ではいかない。ひとつの心の持ち主であるその本人さえ、自身の心が一体どうなっているのか、本当にはよくわからないんですから。

今回のテーマに取り上げた「神はいるか」も含めて、人間の心に関するテーマ、精神的なディスカッションはみな、大変です。

でもだからこそ、探り甲斐があるし、取り上げ甲斐があるんです。

余りにも奥が深過ぎて、完結する事などないテーマで、今回はメルマガの記事をお届けしました。

そんなテーマで何が書けるかナ?

というチャレンジでしたネ、コレ。僕にとっては。

いい勉強になりました。

今回も、最後まで読んで下さって、本当にありがとう。

それでは、又すぐに書きますね。

どうぞお元気でいて下さい。

ではさようなら。

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